父という名の人。

🪞 家族という、静かな物語
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家族のこと

この物語の主人公は、私の父。
家には三人の子どもがいる。
長男は発達障害があり、幼いころから手がかかる子だった。
次男は自立心が強く、家族を見守るような静かな優しさを持つ。
長女は明るく、自由に生きることを望んで育った。
父は、それぞれの子に合わせて、必要なときにだけ、そっと手を差し伸べてきた。


動物園の記憶

子育ての苦しさに押しつぶされそうな日々が続いていた。
長男は、周りと同じようにはいかず、私も時に自分を責めた。

そんなある日、父は静かに長男の手を取り、近くの動物園へ連れ出してくれた。
檻の前で動物たちをじっと見つめる二人。
その間、私は束の間の安堵を手に入れることができた。

父の優しさは、決して言葉で説明されることはない。
ただ静かに、そっと寄り添う背中と仕草がすべてを伝えてくれる。

やがて大人になった長男は、こう語った。

「この前、動物園の横を通ったよ。懐かしかった」

あの小さな背中で感じたやさしさを、長男は今も、しっかりと胸に抱いている。

でもそれだけじゃない。

長男は父親から厳しい暴力を受けて育った。
「お前はダメな子だ」と責められ、時には心と体を傷つけられた。
知的に遅れがあるからといって、何も覚えていないわけではない。
つらかった日々も、すべて心に刻まれている。

「じいちゃん」と過ごした穏やかな動物園の記憶は、
長男の心の支えとして、今も静かに息づいている。


朝の自転車

三人の孫たちは、毎日自転車で学校へ通う。
タイヤの空気が抜けていても、ブレーキがきしんでいても、翌朝には必ず、何事もなかったかのように直っている。

「パンク、治ってる」「ぎーぎー言わなくなった」
そんな“当たり前”が、毎日の風景だった。
じいちゃんは、みんなが寝静まった夜に、静かに車庫に降りていき、工具を手に黙々と修理する。

時にはパンクがあまりに多いと、タイヤのチューブごと交換することもあった。
部品や道具は、ホームセンターでそろえてあり、誰も見ていない場所で、コツコツと働いてくれていた。

けれど、じいちゃんが入院した春──
孫たちの自転車がパンクしたまま、いつまでたっても直らなかった。

「どうしよう、じいちゃんがいない」
「自転車って、おじいちゃんが直すものじゃないの?」

孫たちは、自転車屋さんでパンク修理をすることを知らなかった。

それほどまでに、“じいちゃんがいる幸せ”に包まれて生きてきた。

いなくなって、初めて気づいた祖父の偉大さ。

何も言わない父のやさしさが、どれほど深く家族の日々を支えていたのか──
みんなの心に、静かに、確かに刻まれた。

いなくなって初めてわかる、当たり前のありがたさ。


見守る手、つなぐ想い

長男が自転車を卒業し、原付バイク、そして車に乗るようになっても、
父は変わらず、静かに世話を焼き続けていた。

赤い携行缶を片手に、車庫へと足を運ぶ父。
長男の車のガソリンが減っていないかをそっと確かめ、足りなければ、何も言わずに継ぎ足す。
「必要な子には、ためらわず手を貸す」――それが父のやり方だった。

一方で、次男には同じように手を出すことはなかった。
次男は自立心が強く、自分のバイクや車の管理はすべて自分でやっていた。
父はきっと、そんな次男の強さを信じていたのだろう。

父は、子ども一人ひとりに合わせて、
その子にふさわしい距離を保ちながら、必要なときだけ、そっと手を差し伸べてきた。

そんな父が、家のそばに新しく土地を買い足したことがあった。
それは、いつか次男が家を建て、家族を守ってくれる日が来るかもしれない、という父なりの願いだったのだと思う。

長男には、何かと手をかけ、静かに見守る。
次男には、信頼をもって遠くから支える。
そして、長女には――
「好きな道を自由に歩いてほしい」と、父は心のどこかで願っている。

かつて私を家に縛りつけてしまった負い目も、
長女の未来を自由に応援したい、という思いにつながっているのかもしれない。
そんなことは一度も口にしないけれど、
私が離婚したとき、父の不器用なまなざしに、静かな“申し訳なさ”を見つけた。

父の愛情は、いつも形を変えながら、家族それぞれの背中を支えてくれていた。

愛情は同じでも、差し伸べる手のかたちは、みんなちがう。
――それが、父のやり方だった。

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